Yukiya

「あなたがたは互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」ヤコブの手紙5:16

僕は2016年の春、大学に通うために富山に引っ越してきた。当然のことながら生活の自由は増した。一人暮らしになるとすべて自分のしたいように出来る。それは一般的には嬉しいことだが、自分を律していかなければならない。親元を離れた大学生には沢山の誘惑が存在する。正直、僕は自分を全く律することが出来なかった。聖書のこと、通っている教会のこと、歌った賛美のことを考えないようにして罪を沢山犯した。祈ればいくらでも神様は許してくれる、これが人間の罪の性質だから仕方がない、と勝手な言い訳を毎回作った。そうやって罪を犯しては悔い改められてもいないのに祈っていた。教会で賛美しているときも、自分が嫌になった。いくらこの瞬間に神様のことを愛していると歌っても、どうせまた罪を犯してしまう。そう思って、いつも悲しかった、そんな自分が嫌だった。大学生活で神様に祈ってきたことは毎回が罪の告白だった。罪にまみれていた。そんな僕が大きく変わるきっかけをくれた人がいた。

彼女はノンクリスチャンだった。価値観は当然のように違った。それでも彼女が僕を通して聖書に興味を持ってくれて、いつかクリスチャンになってくれたら、結婚しようと考えていた。クリスチャンの人と結婚したいと伝えると、彼女は抵抗を覚えていた聖書にも向き合い始めてくれた。そして聖書が信頼できるがどうかを判断するため、本気で聖書に向き合ってくれた。それなのに僕は彼女を最低な形で裏切ってしまった。彼女の心をずたずたに引き裂いてしまった。文章では説明できないほどに。

「人の心をこんなふうに踏みにじれる人がクリスチャンなわけない。神様のイメージが汚れてしまうからクリスチャンなんて肩書を外してほしい。サタンにすら思えてしまう。」

彼女は思いやりのある、優しい人だ。こんなことを言わせてしまうほど、僕のしたことは最低だった。すごく身に染みる言葉だった。今までに、クリスチャンである訳がないと、あれほど自覚したこともなかった。彼女が去ってから、自分がどうにかなってしまいそうなほど、考えれば考えるほど、どんどん凹んでしまった。やっと聖書に興味が出てきて、前向きに読めるようになってきたのに、裏切られた。クリスチャンに対して嫌悪感すら抱いている。僕のせいで彼女はクリスチャンになれないで、地獄へ行くのかもしれない。そう思ってから、ずっと自分が嫌で仕方がなかった。自分はクリスチャンではない、こんなことをした自分がクリスチャンになる資格などない、と繰り返し考えていた。彼女にあんな表情であんなことを言わせてしまうほど、僕は彼女を正面から裏切って、心をずたずたにしてしまった。自分はクリスチャンではないし、クリスチャンとして生きる資格はないのだと、頭の中で反響してしまって、つらくて仕様がなかった。歩み寄ろうと必死に努力して、最後に詐欺のように裏切られ、心を踏みにじられた彼女のほうが何倍も辛いに決まっているのはわかっていたけど、本当につらかった。クリスチャンであることを自分の存在理由のように感じていたので、存在する意味が自分の中でなくなってしまったのだ。

神様に祈りたいけど、祈れなかった。こんな時まで自分のために、自己中心的に罪の赦しを求める自分への嫌悪感で出来なかった。なかなか人には話せなかった。こんな最低な自分を打ち明けるのが怖かったから。それ以来、クリスチャンの人と接すると、そんな自分が情けなくなってしまって、会いたくない、教会にも行きたくないと思うようになった。誰かに汚い自分を全て打ち明けて、祈って欲しかったけれど、今回のことを話したら、どう思われるのか怖くて出来なかった。僕は教会も、教会のみんなも大好きだったから。それが崩れてしまう気がして、怖かった。少し経って、僕は帰省して富山で通っている教会を一週休んだのに加えて、ちょうど教会がしばらく休みになったため、あの頃の自分にとっては良かったのかもしれない。

自分と神様との関係を考え直す時間が必要だった。まず祈って、罪を告白して、悔い改めたい。あれほど他人には「どんな罪でも許してもらえるから大丈夫だよ。」と笑顔で自慢げに語っておきながら、自分の罪が許してもらえるとは思えなかった。それでも聖書だけは読もうと思った。そしてある箇所が頭から離れなくなった。

それは皆からさげすまれていた、罪の深い女がイエスに出会う箇所だ。彼女は涙でイエスの足をぬらし、髪の毛でそれをぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。人々はこの罪深い女に対して、イエスがどう応じるかに注目していた。イエスは弟子のペテロに語り始めた。

「ある金貸しに金を借りた人が二人いたが、一人が500デナリ、もう一人は50デナリを借りていた。ところが返すことが出来なかったので彼は二人とも赦してあげた。この二人のうちでどちらが彼をより愛するようになりますか。」「多く赦してもらったほうだと思います。」

「あなたの判断は正しい。」それから女のほうに振り向いてシモンに言われた。

「彼女をみましたか。わたしが家に入った時にあなたは足を洗う水をくれなかったが彼女は涙でわたしの足を濡らし、髪の毛で拭いてくれました。あなたはわたしにくちづけしてくれなかったが彼女はわたしの足に口づけをしてやみませんでした。あなたはわたしに油を塗ってくれなかったが、彼女はわたしの足に香油を塗ってくれました。だから、わたしは彼女の多くの罪は赦されていると言います。それは彼女がよけい愛したからです。しかし、少ししか赦されないものは、少ししか愛しません。」

そして彼女に「あなたの罪は赦されています。」と言われた。「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」ルカの福音書7:36-50より

僕は多くの罪を犯して、沢山の人を傷つけ、何度も悔い改めるふりをしてきた。犯した罪は、自分の価値を下げる呪いでしかなかった。その僕にイエスが「人より多くの罪を赦されたから、あなたはわたしをより愛するようになる。」と語っているような気がした。誰にも言えない罪を何度も神様は赦してくれた。そして僕が神様をもっと愛せるように、僕にとって暗黒面でしかないその罪さえも用いてくださる。この言葉にどれだけ救われたことだろう。

聖書を読み、僕が自分を愛せなくても、これまでもこれからも神様が愛してくれていると実感していく中で、また祈れるようになった。自分の罪をすべて告白した。罪を犯す最中の感情も、思っていたこともすべて神様に吐き出した。

「わたしは。あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのように拭い去った。わたしに帰れ。わたしはあなたを贖ったからだ。」イザヤ書44:22

毎日聖書を読んで、祈った。これまで生きてきて、こんなにも自分と聖書と神様の関係を真剣に見直したことはなかった。その中で、かつて教会でみんなに聞いてもらうために書いた証を読み返した。それを書いたのは大学2年生の時だ。神の独り子イエスが僕らの罪のために十字架に架かって死に、三日目に蘇ったことを僕は信じているから何も心配いらないと、自信をもってクリスチャンらしくしていた。でも、ならばどうしてその証を書いてからもクリスチャンとして生きるのが難しく、つらかったのだろうか。クリスチャンらしく生きようとすればするほど、葛藤が生まれたのだろうか。友達にクリスチャンなんて損だと思われること、抵抗を抱かれること、クリスチャンらしくないと批判される怖さとか、原因は色々考えられた。でも一番の原因はキリストの価値観の中で生きたいと思えていないことだった。自分はクリスチャンなのだから、その価値観の中で生きなければいけない、とまるで足枷のように、果たさなければいけない義務のように考えていたのだった。

僕はキリストの価値観を大学生として生きていく中で非常に窮屈に感じていた。前述したが、僕は不品行に明け暮れていた。きっとまた悔い改めれば、祈れば許してもらえる。こういう考えでいつも聖書の教えに背いては、悔い改めるふりをして、祈るふりをしていた。どうせまた明日もやるだろうけど今は悔い改めておこう、そういう風に思っていた。罪を犯してしまうのは罪の性質をもって生まれてきた人間の本性だ、と。どうしてそんなふうに思ってしまっていたのか。それはイエスが僕のために、こんな僕を救うためにしてくれたことを客観視していただけで、ただの知識としていただけで、全く実感していなかったからだ。

「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」

ヨハネの福音書14:15

イエスの教えを守る気がないということは、僕がイエスを愛そうとすらしていないということだ。もう一度よく考えてみた。

「イエス様は僕らを救うために十字架をかかったんじゃない。ただ一人の君を救うために十字架に架かったんだ。」

むかし聞いたメッセージで、もしもこの世界に君一人だけだったとしても、たった一人の僕を救うためにイエスは十字架に架かってくださる、だから彼の十字架はみんなのためではなく、君だけのためなんだ、というメッセージを聞いたのを思い出した。

僕が自分勝手に犯してきた罪に対する、永遠の裁きから僕を救うために、イエスは無実なのに、神であられるのに、不完全で惨めな人間の姿となって、十字架に架かってもがき苦しんで、身代わりの死を遂げてくださった。そのことを信じているなら、あんな簡単に罪を繰り返せたりしない。身近な例で考えたらわかりやすいかもしれない。

例えば、引っ越しの手伝いを友達に頼んで、手伝ってもらっている最中に別の友達に昼ご飯に誘われたら、自分のために汗水垂らして手伝う友達を置いて自分だけ友達とご飯に行くだろうか。自分のために苦労してくれる友達を置いては行かないに決まっている。それを断って、あとで手伝ってくれた友達に感謝しながら一緒にご飯を食べるはずだ。こういう友達に対する恩は守れることは当たり前にできる。次にイエスから受けた愛を考えてみる。

人は本来なら犯した罪の裁きとして地獄に行くこと、永遠の死の苦しみを受けることが決まっていた。それをイエスが身代わりの死によって、イエスを愛するならば誰もが天国に行けるようにしてくれた。恩を返すか返さないか、の次元ではない。その途方もない愛は僕らには返せない。だから僕は神様を愛し通したい。数えきれないほど罪を許され、その命を捨てるほどに愛されているのだから。

「それと同じように信仰も行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」

ヤコブ2:17

友達には自分はクリスチャンだという手前、僕は彼らと一緒に罪を犯していた。その行動によって、クリスチャンとは結局自分達と変わらないと思わせてしまっていた。そうしてクリスチャンに対するイメージは本来あるべきものと全く違ったものになってしまう。

「彼らは、神を知っていると口では言いますが、行いでは否定しています。」テトス1:16

僕は変わりたかった。生きたクリスチャンになりたい。そう思ってさらに聖書を読んで祈る日々の中、富山でお世話になっている牧師に勧められて、ジョン・パイパー牧師の「Don’t waste your life」という動画を観た。(興味のある方はYoutubeで観て欲しい。)彼は同じ題で、本も出版しており、その本も読ませてもらった。ここまでクリスチャンとしての生き方を厳しく問われたのは初めてだった。彼はこう語る。

「多くの人が自分のことを幸せにするために生きている。良い車、良い家、良い職、良い家族を手に入れ、早めに仕事を引退し、穏やかに死んでいくことを目標に生きている。そして死んでこの世を去ってから神様の前に立たされた時、自分が追い求めていたアメリカンドリームのようなものは、神様の前には全く虚しいものであること、自分が一度しかない人生を無駄にしたことに気づくのだ。」

はっとした。彼が虚しいと語るものは、まさしく僕が今まで目指していたものだったのだ。僕はイエスではなく、この世を愛していたのだと気づかされた。

「母の胎から出て来たときのように、また裸でもとの所に帰る。彼は、自分の労苦によって得たものを、何一つ手に携えて行くことが出来ない。」伝道者の書5:15

例え、世界一のアメリカンドリームを掴み取ったとしても、死んだ瞬間にそれらは無意味なものと化すのだ。何も待たずに生まれてきたように、僕らは何も持たずに死んでいく。それならば聖書の語る無意味でないものとはなんだろうか。

「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」伝道者の書12:13

神様の前に虚しくないもの、それは神への恐れ、神の命令を守ることだ。

「主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」ミカ6:8

「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は。わたしにふさわしい者ではありません。」

マタイの福音書10:37

神の前に価値ある生き方、それは神と共に歩む生き方である。そして家族よりも、配偶者よりも、この世の誰よりも神を愛さなければ、その生き方は出来ない。僕は自分の心の声に注目しすぎて、イエスのことなどそっちのけになっていた。自分を幸せにしようと躍起になって、本来クリスチャンが得られるはずの、人としての最大の幸せを逃していた。神様を一番に愛する生き方とは、神様のことをいつも考えて、自分の行動が、人々の目ではなく、神様の目にどう映るのかを考えて生きることだ。そうした生き方にはこの世の価値観とは違った、キリストの価値観が現れる。

最近学んだ、幸せな結婚生活を送るために大切なことを忘れないために書かせてほしい。

「多くの独身のクリスチャンが寂しさを覚えて、結婚すればこの寂しさがなくなるだろうと考えて、パートナーを探している。しかしそれは大きな間違いだ。結婚生活とは必要が神の中で満たされることをお互いに助けることであって、お互いに依存することではない。幸せな結婚生活を送るためには、配偶者がいなくても、神様との正しい関係をそれぞれが構築しており、お互いが自立していることが不可欠である。配偶者がいなくても、神様の愛に満たされている二人が生活を共にすることによって、神様から受けている恵みが溢れ出し、お互いを潤すことによってさらにお互いの信仰が育つようになる。」

僕の中で、結婚の一番の目的は自分が幸せになることだった。その中には一人でいる寂しさを埋めることも、性の欲求を満たすことも入っていた。でもそれは大きな間違いだった。まず神様との正しい関係が作られていなければならない。お互いが愛に飢え乾いて、欲を満たすために結婚し、お互いが依存しあったとしたら、その後の二人の生活は暗く、虚しいものになってしまう。順序が大事だと知った。何よりもまず自分と神様の関係が正しいものでないといけない。だから将来、結婚に向けて付き合い始めるときには、誰よりも神様を愛したいことを伝え、あなたにもそうあって欲しいと相手に伝えたい。二人が互いを見つめあうのではなく、神という同じ方向を向いて歩むことが出来たのなら、どれほどの祝福があるのだろうか。今では、結婚の目的は人生を通して神の栄光を世に表し続けるために人生のパートナーを得ることだと納得している。

僕はこれだけ人を傷つけて、自分もこれほど傷つけて、やっとのことで神様を第一にする生き方が最善だと分かった。それは努力して聖書を読んだからでも、毎日何度も祈ったからでも、へりくだって正直に罪を告白し、悔い改めたからでもなくて、自分の過去をすべて知っている、自分の知らない罪さえもすべて知っている神様が、こんな僕を生まれる前からずっと愛して、今もこれからも、どんなことがあっても変わらずに愛してくれているからだ。

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」エペソ1:8-9

神様が、こんな僕を死ぬほどに愛してくれて、罪しか犯せない自分をあわれんでくれたから。僕にはそれに見合う行いなど、これっぽっちもなくて、むしろずっとその愛を拒んできた。

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」ヨハネの福音書15:16

僕が神様を信じることを選んだのではなくて、神様が僕を選んでくれた。どうしてこんな僕なんかが選ばれたのだろうか。救いはすべて神の恵みによる。そして僕は救われた。すべきことはただ感謝し、神を愛することだ。

そして、もう自分を人生の主人公にするのをやめたいと思った。自分を主人公にしていてはせっかく与えてもらった人生を虚しいものにしてしまう。それに周りの人も滅ぼしてしまうと自分の過去を通して、嫌というほどよく分かったから。

「あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを知らないのですか。あなたがたは代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」

1コリント6:19-20

「あなたがたは食べるにしても、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」1コリント10:21

イエス様は自らの十字架の死をもって僕を買い取ってくださった。だから、もはや僕たちのからだは自分のものではなくて、神様の栄光を現すための、神様のからだの一部分だ。神様の栄光を現すというのは神様からもらった愛を、自分を通して周りの人に感じてもらうことだと思う。僕が神様を愛するよりも先に、まず神様に命をかけて愛されたおかげで、他人をわけなく愛そうと思えるのだ。その違いを周りに感じてもらうことが栄光を現すことにつながると思う。

「一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。」ローマ12:11-12

神の栄光を現すために僕は神様に造られて、今生きている。死んでこの世を離れ、神の前に立たされた時、後悔しないような生き方をしたい。

口で言うことなんて誰にでも簡単にできる。だから僕は過去の自分と変わったことを、これから行動で示すしかない。僕の過去は、それは酷い過去だから、猶更そうだと思う。行いの伴った生き方で自らの信仰を示さなければならない。これほどの恵みと愛を受けていることを自覚しても、変わらず僕の信仰はとても弱いから、神様の支えなくして不可能だから、毎日祈っていく。

彼女に僕は合わせる顔もない。確かなことは、僕がずたずたに引き裂いて、踏みにじった心をも、神様なら癒せること。そのために僕は祈るしかない。その祈りは自分のためなのかもしれないけれど、祈らせてほしい。いつか許してもらえるなんて思わない。今更謝っても無駄なのだが、僕はどうかしていた、自分中心にも程があった。本当に申し訳ない。僕に引き裂かれた心が一日でも早く癒されるように、僕に崩された信仰がまた再生されるように、彼女が毎日聖書を読めるように、祈れるように、聖書を信じられるように、彼女の毎日が祝福で満たされるように、祈らせてほしい。誰よりも彼女のことを神様が愛していることを1日でも早く彼女が実感できるように、僕は祈り続けていく。

こんな証を書いたとしても僕は今までと変わらず、罪人でしかない。過去に犯した罪は変わらない。でもこんな自分でも愛してくれる神様がいる。なんて大きな希望なのだろうか。神様は十字架にまでもかかって、こんな僕を救い出してくれた。それを信じる信仰が与えられていることを感謝し、神様を一番に愛し、十字架だけを誇る人になりたい。

自分のことをこれほど嫌いになったことは今までになかった。でもだからこそ、命を捨てて、こんな僕を救ってくれた神様の愛の大きさが分かった。聖書をもっと読んで神様のことをもっと知って、生涯を通して神様を一番に愛する人になりたい。

そうなるためにまた課題になるのは、医師として将来どのように生きていけばいいのか、神様のために医師として出来ることはあるのか、ということだ。僕はいま医学部で学んでいて、あっという間に5年生になった。順調にいけば、およそ2年後には医師になる。医師という職業は、収入も社会的地位も比較的高い職業だ。だから自分を誇りやすい。自分一人で生きていけるような気がしてくる。お金が増え、社会的名声もある程度手に入れることで罪の誘惑は強く働くはずだ。罪の誘惑に弱い僕にとっては危ない職業だと思う。

医師になりたいと初めて思ったのは中学2年生の頃だったと思う。自分が働いた結果、幸せになった人の笑顔と感謝を仕事のモチベーションにしたいと思っていた。そして人が一番感謝するはどういう時かを考えたら、それはきっと自分の命や大切な人の命を助けられた時だと思った。命を救う仕事には色々あるが、真っ先に思い付いたのは医師だった。もちろん経済面もあったし、自分自身が人体の構造と機能に興味があったのもあるが、主にその理由で医師を目指してきた。でもどうしたら医師として神様の栄光を現すために生きていけるのだろうか。病院では医師として患者さんと接しなければならないし、忙しく、効率の求められる仕事であるから聖書の話を診察室ですることは出来ない。

ジョン牧師のこんな文章を見つけた。

〈神が必要のすべてを満たしてくださる、私達が受けるに値しないすべての祝福を買い取るためにキリストは死なれたという、素晴らしい確信を抱いて働くのなら、その時私たちの労働は愛の行動となり、十字架のみを誇ることとなる。〉

〈人々が神を喜ぶようになるために余剰金がどのようにして用いられるのかを夢見ながら働くべきである。全生涯がこの目標のためにあるという意味で、もちろん人々が神を喜ぶために収入のすべてを用いるべきだ。もし自分に必要でない収入を用いて、イエスの御名によって他者の必要を満たすことを目指すのなら、世俗のはたらきは世に対して、神を崇める大きな祝福となり得るということだ。〉

彼の考えはすごく参考になった。確かにそうだ。医師として働くことで得た金銭の使い道にクリスチャンとしての生き方や価値観を現すチャンスがあると思う。MBCなどのバイブルキャンプ場に献金したり、若者宣教や、教会開拓に用いてもらったり、国境なき医師団に寄付したり、お金には神様に喜んでもらえそうな使い道が沢山ある。

加えて、僕がクリスチャンであることを職場の人々が知っている中で、神様を一番にする生き方をすれば、神様の栄光が現せるのではないだろうか。聖書は福音を語るだけでなく、自分自身を福音で飾ることも勧めている。

「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」マタイの福音書5:16

自分の行動によって信仰を現し、飾り、その魅力によって人々を魅了し、興味をもってもらい、福音を語る機会を掴み取る。僕は職場でもこれまでの学生生活と同様に自分がクリスチャンだと周りの人に大胆に言おうと思う。そして神様を一番にして生きられたなら、自分に関わる人達がその差を感じたなら、もしかしたら興味や関心を持ってくれて、いろいろ質問してくれるかもしれない。そうなれば、その会話が福音を伝えていくきっかけになっていくのではないかと思った。

神様は一人一人を別々の器官として、ひとつのからだとして用いてくださる方だ。その方法が何なのかは分からない。でも神様が僕にしかないものを生かしてくれることは確かなことだ。今まで、僕が人生を通して成すべきことは何だろうとか、そういうマクロな視点で考えていたが、もっとミクロな視点で、今日1日の中で神様のために出来ることはなんだろうかと考えることが重要なことだと教わった。1日を神様のために使えるように、毎日祈っていくことが大切なのだと気づかせてもらった。将来のビジョンについてもミクロな視点で、刻むように毎日神様に聞いていきたい。医師として働くことそれ自体が、病に困っている人を助けること、誰でも出来るわけではない、イエス様が貧しい人や病気の人を癒やしたような大切なミニストリーだと考えられることに気づかせてもらった。

〈私達はこの世が愛するのと同じおもちゃを愛するように、この世と調子を合わせると安心できるように出来ている。地上を故郷と呼び、贅沢品を必要なものと呼び、金銭を未信者と全く同じように使っている。宣教の働きや未伝地のことは私たちの心からは抜け落ちている。世俗の考え方に染まり、神に出来ることではなく、人間に出来ることにまず目を留めている。〉

これはまさしく僕のことだ。この世を愛そうとする心を持ちながら、か細い信仰を握りしめて生きている。油断すれば、すぐに罪の誘惑に負けてしまう。罪の罠にかかり、滅びに向かっていってしまう。だから毎日祈り、神様に支えてもらいながら歩まなければならない。

「ですから誰でも自分自身を清めて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、清められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。それで、あなたがたは若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。」

Ⅱテモテ2:21-22

神様にきよい器として用いてもらうためには、生きている中で覚える一つ一つの情欲に真剣に立ち向かわなければならない。それを心がけて情欲を覚えるリスクとなるものから離れて過ごしているが、毎日は不思議なくらい幸せで満ち溢れている。誘惑や困難を覚える度に自分の弱さを覚えて、神様に頼って祈る。そうすると不思議と勇気が湧いてくる。より細かな情欲に対してNoと言えるようになったのだ。それは当たり前なのかもしれないけれど、情欲を避けて、細かな罪を避けて、聖書を読み、祈っていると、一日毎にきよい器に近づいているような感覚を覚えて、いまは毎日がすごく充実している。時には同じ罪を犯してしまって自分が嫌になるけれど、何度だってまた立ち上がり、また歩み始めることができている。こんな僕にここまでの祝福をくれる、神様の愛はどんな宝石よりも美しく尊いと思う。

 

しかし、主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。というのは、私の力は弱さのうちに完全に現れるからである。」と言われたのです。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。私はキリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら私が弱いときにこそ、私は強いからです。

Ⅱコリント 12:9―10

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トリニティーチャーチ富山は富山市にあるプロテスタントの教会です。Trinity Church Toyama is a Protestant church in Toyama City.

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