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Ayano 

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こんにちは。

私は富山県出身で高校生までこの富山で過ごして居ました。今は東京の大学で声楽の勉強をしています。

私の家はクリスチャンホームではなくて、大学の友達からイエス様の話を聞いて、キリスト教について知りました。

そして去年の6月に千葉県にあるHope Church という教会で洗礼を受けました。

 

大学1年生の時、私はある大学の先輩のFacebookの投稿を見ました。

そこに書かれていたことは

「私はどんなに頑張っても評価されなかったり、良い成績が残せないと自己嫌悪に陥る時があります。しかし神様は全ての人に違う能力を与えて、能力の差に関わらず同じように価値を認め、愛してくださるということを知りました。ぎゅっと握りしめていたプライドから解放されて涙がこぼれました。」

という内容でした。

私は幼い頃から音楽をやっていたので、人からの評価、成績、才能やプライドといったものが自分の価値を認めることが出来るものだと思っていたんです。

でも、その頃、それを求め続けなければならない音楽の世界に生きることがとても辛くなっていました。

だから、この投稿を読んで、物凄く慰められたような気持ちになったんです。

 

私は、もっとそういう話を聞きたいと思いました。同級生にKちゃんというクリスチャンの子が居ることを知っていたので、私は自分から

「キリスト教のイベントに行きたい」

と言ったんです。

今思うと、それはその子にとって超ビックリすることだったと思います。

自分からキリスト教を知りたいと言ってくる人はなかなかいないですよね。

 

同級生にもう1人Nくんというクリスチャンが居たので、Kちゃんから伝わって2人から猛烈にクリスチャンのイベントに誘われるようになって

大学1年生、2年生と何度も色々な牧師先生のメッセージを聞きました。

 

聖書のイザヤ書40:11

「主は羊飼いのように群れの世話をし、 子羊を抱いて運び、雌羊を優しく導きます。」

‭‭

ある時、メッセージの中で私たちは子羊なのであることを知りました。そして神様がいつも私を導いてくれていることを知りました。私は、どこかの宗教の神様を信じている訳ではなかったけど、その時なんだか凄く涙が出たのを覚えています。

 

そして、2年生の冬に初めて日曜日の礼拝のために教会に行きました。

その時、全部英語で賛美を歌って、内容は全くわからなかったけど、なぜか涙がバーってなって

超恥ずかしくなって周りを見渡すと、一緒に行っていた4人のノンクリスチャンが全員泣いているという異常事態でした。

みんなと帰り際に「キリスト教って本当良いよねー」と他人事のように話したのを覚えています。

 

そして極めつけなことが2年生の終わりごろにありました。クリスチャンの友達に

「彩乃ちゃんって神様信じてるの?」

って聞かれたんです。

それで私は

「神様はいると思うけど、キリスト教の神様だとは限らないと思うし、日本人として仏教の神様を信じていても変わらないんじゃない?」

と言いました。

そして、その友達はこう言って来ました

「人間って、自分を信じているか、神様を信じているかのどっちかだと思うけど、仏教の神様を信じているならその神様の何を信じているの?」

そう言われて、私は仏教の教えついてはそんなに知らないし、お釈迦様が私に何をしてくれたかとか知らない!って思ったんです。だから私はただ単に、自分が信じるものを信じる、いわゆる自分宗教だったことに気付きました。

 

なんだか的をつかれたようなことを友達に言われ、悔しすぎて

「クリスチャンって偉そうだよね、だから嫌なんだよね〜。私は一生クリスチャンになんてならないから。」

って言っちゃったんです。友達の目はウルウルしてたけど、私を責めることはせず、「日曜日教会で待ってるからおいで」とだけ言い残して帰って行きました。

 

なんか、ひどいことを言っちゃって申し訳ない思いがあったし、このままキリスト教から離れるのは私にとって寂しいことでした

だから、その日曜日に友達の教会に出向きました。

でもその時は、キリスト教の良い面だけを取り込んで、今の自分が信じてるものを続ければ良いや〜という思いでした。

でもその日メッセージを聞いた時、自分が信じているものとは全く違いすぎて適用出来ない!って初めて思ったんです。キリスト教はキリスト教として知る必要があるのかもしれないと思って、牧師先生から誘われたバイブルスタディーに「行く!」と言ってしまいました。

 

参加した1回目のバイブルスタディーで私は罪人であることを改めて認めました。私は、22年間という人生の中だけでも思いあたる多くの罪があることは、それまでも知っていました。でも、この世界を初めから創られた神様を知らないという罪は知りませんでした。

そして「父、子、聖霊」3つで1つであられる神様の、その交わりの中に、私を入れたい、という愛のゆえに私は生まれ、神様との和解を神様は待っておられることを知ったんです。

 

その日、とても感動して帰りました。次の日、祈りたいと思う出来事を体験しました。でも私は、「イエス様の名前によって祈る」ということが出来ませんでした。信じていないのに、その名前で祈ることは恐れ多いと思ったからです。なんだかとてもショックでした、信じることでしか神様と交わることは出来ないと分かったからです。

その後コーヒーショップに行って、前の日にやったバイスタを思い出してる時に、一瞬でヒラメキました。

「あー!信じれば良いやん‼︎信じれば祈れるし、神様は私の神様になるし、信じれば良かったんやん‼︎」

そんな単純なことを、エジソンがランプを発明したレベルで感動して思いついて

友達に「神様信じたいんやけど、どうすれば良いん?」とLINEしました。

大慌ての友達からの返信は、電話するから一緒に祈ろうねということでした。

家に着いて、友達と電話をしながら、もう一度イエス様を信じる告白と静かな祈りをしました。

「あやのちゃんおめでとう、クリスチャンになったね!神の家族だね!」

と言ってくれました。「ほんまにクリスチャンになったんか?何も変わらんけどな笑」ってその時は思っていたけど、

寝て起きれば何でもリセットされてしまう私の性格とは裏腹に、次の日の朝、今日もイエス様は私といてくれるということを感じました。

 

でも今は分かります。こうして神様を信じることに導いてくれたのも神様で、神様は私が神様を信じていない時から私を知っていた。私の今までの人生を全部知ってるお方で、これから先のことも全部知っておられるお方だということです。そういえば、今まで私はどんな時も何かに助けられていた。その正体を知ることが出来て嬉しいです。

 

人はどんな人も生まれながらに、心の中にポッカリと穴の空いた虚無感を持っていると思います。ふとした時に虚しくなった時を思い出せる方もいると思います。そのピースにピッタリとおさまることが出来るのは、聖霊だけです。それはイエス様の十字架の死と復活を信じる、信仰よってのみ与えられます。私は今、昔持っていたその空洞が埋まっていることを感じています。

 

「体は、神様があなたがたに与えてくださった聖霊の家であって、聖霊がそこに住んでおられるのです。あなたがたの体は、自分のものではありません。」

‭‭コリント人への手紙Ⅰ‬ ‭6:19‬

 

聖書に書いてあるこの事は、全ての世界の人が体験することが出来ます。日本においてもイエス様は私たちの神様です。神様は私を愛しています、神様はあなたを愛しています。

 

「わたしは、彼らの不義をあわれみ、もはや、彼らの罪を思い出すことはしない」

‭‭ヘブル人への手紙‬ ‭8:12‬ ‭

 

神様は、私の罪を憐れみ、ご自分の息子イエス様をただ1度だけ、いけにえとして十字架にかけることによって、もう二度と私の罪を思い出す事はしないと言われたのです。

イエス様が戻って来られる日に、イエス様は私の前に立ち「あなたを知っているよ」と言ってくれるでしょう。

だからこれからの人生を私はキリストのために生きたいです。

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